2018年05月02日

No...4919 スピリッツ島 (終)

          7

 一番奥まったところへ来ると、船は左手奥に舵をきって、ちいさな桟橋に着いた。
「スピリッツ島です。下船して十五分間、ここからの景色をたのしんでください。この湖で、いちばん眺めのいいところです」
 船を下りるとき、哲はまた紗枝の手をとった。降りたすぐのところから、勾配の急な坂がはじまって、細い山道があるだけである。みんなが一列になってゆるゆる歩きだした。紗枝と哲も列に入れてもらい景色に見とれながら歩いた。
 突き当りを下へ回りこむように道がついている。道にそって曲がりながら振り返ると、哲がいない。おかしい。どこへ行ったのか。人の流れを逆にかき分けながら探した。途中でケティーに会ったので、こんな感じの人を見かけなかったかと聞くが、知らないと言う。それはそうだろう。最初から見えていないのだから。
 船にもどったのかと思い、船内も探したが、どこにもいなかった。
 紗枝は、体から血が引いていくように感じる。人には言えない。言ってもわからない。だけれど、わめきたい。
 (わたしの弟を探してください。五十年ぶりに会えただいじな弟なんです。どこかに消えてしまったんです。お願いです。いっしょに探してください)
 背筋が寒くなって、涙がだらだらと頬にこぼれてくる。
「どうしたのですか? 」
 中年の夫人が聞いた。返事ができない。口を開けたら、涙で咽せてしまいそうだった。もういちど人をかき分けて前の方へ進む。ケティーが何かなくしたのかと聞く。ちょっと……それだけをようやく言った。
 (サトシ、サトシ、どこへ消えてしまったの。どうして消えてしまったの。どうして? さっきまで、ちゃんといたじゃない。今までいたじやない……)
 紗枝の心に、地すべりが起こる。山もひっくり返りそうな地すべりである。だのに、まわりの誰もが平静だった。サトシ、サトシ、哲、哲……あっちもこっちも、何べんも見るが、岸辺の足元に、リスが二匹走り回っているだけだった。
「さあ、時間でーす。お急ぎください」
 みんなは船に乗り込み出した。紗枝は哲を置いては帰れないと焦る。でもどこにもいないのだ。係りに促されて、しかたなく最後に乗船した。
 もう、船も山も、紗枝には意味がなくなった。どうでもよくなった。哲がいたから愉しかったのに……
 (スピリッツ島、魂が帰っていく山。うっかり……あそこに上陸したために帰れなくなったのだ。船で待っていたら、あの島に足を踏み入れなかったら、哲はいなくならなかった)
 いくら目で探しても、山だけが静かに姿を湖水に映しているだけ……
 (せめて手を振ってくれたら、わたしはあきらめがつくのに……)
 左手の雪をいただいた山と雪渓が再び見え出す。先ほどは哲と眺めた山なのに、今は独りになってしまった。右手に山脈のするどく尖ったところが見え出すと、荒れた山肌は紗枝の心をさらに荒れさせた。
 哲は、あんなに荒涼とした山に帰って行ったのだろうか? 瑠璃色の湖面を眺めても、空漠しか感じられなくなっていた。
 ダンが岸辺から手を振った。下船してケティーと二人でダンに近づく。
「たのしかったですか」
 ダンは聞き、ケティーはどんなにすばらしかったかを説明している。ダンが尖った山の話をしながら駐車場まで歩いた。紗枝は、それでもときおり振り返って見た。哲の来る気配はなかった。

 ホテルヘ帰ると、まっすぐ部屋に行って、クローゼットに置いたビニール袋を探した。くしやくしやになった袋はあったが、なかの汚れ物は消えていた。
 松ぼっくりは……それも消えたのではと、急いで引き出しを開ける。衣類の中に埋まるように、松ぼっくりはあった。紗枝は手にとってにぎった。松ぼっくりがたちまちぼやけて見えた。夢ではない。哲はちゃんとここに来て、いっしょに語り合ったのだ――。
 独りは寂しくてやりきれなかった。部屋の電気をすべてつけ、テレビもつけてボリュームを上げた。でもそんなことで心の隙間は埋まらなかった。
 紗枝は眠れないままに、凍るような孤独をかかえて朝を待つ。
 翌朝は雨だった。傘をさして山に向かう。横殴りの雨。傘がさしにくい。体に雨が容赦なくかかる。髪からしずくがたれた。でも、そんなことも気にならないように紗枝は先を急いだ。一昨日、哲が現れたところまで行かなければならないとそればかりを考えた。
 ――針葉樹林の中はただ暗いだけだった。
「サトシー。お姉ちゃんは今日、大陸横断鉄道に乗って、東部へ行くよ」
 声が森に吸い込まれていく。
 列車は一日おきにしか来ない。それが昼には到着するのだ。予約してある列車に乗り遅れるわけにはいかない。
「お前に会えてよかった。ほんとうによかったよ」
 いつの間にか雨が止んだ。雨水で重くなっている傘を右手に、左手をポケットにいれて、松ぼっくりをしっかり握りしめる。紗枝は哲と並んで歩いた一昨日を思い返しながらホテルヘの道を歩き出す。
 ――道は遠かった。             (了)
                             
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2018年05月01日

NO...4918 スピリッツ島 7-6

          6

 翌日の午後はホテルに申しこんでいたツアーに行く。
四輪駆動車で迎えに来たのは、ダンという元高校の教師で退職したばかりだと紹介される。先客が一人いた。イギリスからの少女ケティー。いや少女のように見えたが、聞くと、三十一歳だと。ダンはこの二人だけで、出発ですと言った。
 町を抜けて大きな道路に出る。十台ほどの車が停まり、人々は車から降りていた。近寄ると、マウンテン・ゴッドが崖を降りてくるところだった。保護されているのを知っているようで、人が近づいても平気であった。ダンはほかに熊や鹿も見ることができますと説明する。珍しい動物は、エルクだとも話し、運がいいと見られると。エルクは角がりっぱな動物らしい。哲は後ろの方でコートのポケットに手を突っ込んで、この話を聞いていた。
 出発して十一キロ行ったところで下車。マリーン渓谷は一見すると山の中のちいさな川に見えるが、これがキャバーンだった。橋がいくつか架かっている狭いところをダンが先にたって歩く。地球の割れ目は六十メートルの谷をつくっていると言う。覗くと水は大きな音をたてて深く落ちるが、下までは見えない。いろいろな形があり、まっすぐに落ちるだけではなく、変形した滝もある。あちこちの角度から見た。
「どうしてこのようなものができたのかね」
 哲に話しかける。
「強烈な地殻変動があったんだろうね。そしてどれも偶然のことさ。オレの死んだのも偶然。世の中にそんなに意味のあることなど、ありゃあしないよ」
「わたしもそう考えるわ。七十を越えれば、当然死に近くなっていると覚悟しているよ。人はいつか死ぬ。そこをしっかり見据えれば、あとは、あくせくすることはないと思ってしまう。この割れ目だって選ばれてなったものではないよね。地球が上下して暴れているうちにこうなっただけ。だいたい地球という星に生まれてきたのだから、地球の偶然に従うしかないね。お前の言うとおりだと思うわ」  

 つぎの湖に行くと、パイカというリスに似た小動物に会った。一所懸命草を運んでいる。ダンは説明した。
「冬の餌用に干草をつくっているのです」
 パイカは行ったり来たりと、いそがしそうである。
「生きるって、あくせくしながら本能で命をつないでいくことかもしれないね」
 紗枝は体を前に乗り出して見る。
「あゝしながら、命を終える日がいつかは来るんだ」
 哲が言うと、言葉に重みがあった。
「生きるだけなら単純なことかも知れないけれど、人は生きがいというお題目に振り回されるよね。動物なんかは、その点七面倒くさいこと考えない。でもパイカはちがうかな。あんなに一所懸命冬支度をしているもの。何だか感激するねえ……一所懸命なところに感動するのかなあ」
 紗枝はパイカに応援したい気分になっていた。

 最後はマリー・レイクに行きますとダンはエンジンをかけた。
 夏の最盛期である。レイクサイドに船を待っている人は大勢いた。ダンが予約をしてあるおかげで、待ち時間が二十分ほどだと言う。コーヒーを外のテーブルに運ぶと、ケティーはランチを食べてないからお腹が空いたと、おいしそうにパンをかじって紙カップのコーヒーを飲む。その動作が若々しくまぶしく思え、紗枝は見とれた。
 船の順番が来ましたと、ダンが立ち上がった。
 何隻かの船が湖面を行き来している。三十人乗りほどで船体は白い。蒼い湖に白い船がくっきりとまぶしい。船が桟橋に横付けになると、ダンがわたしはここで待っていますから乗ってくださいと言った。キティーが身軽に乗りこむ。つづいて乗ろうとした紗枝は、体のバランスを崩してよろめいた。
 哲が後ろから抱きとめる。
「こんなことで、ぐらつくなんて、わたしも齢だねえ」
 体を立て直しながら、恥ずかしそうに言ったが、そう言う紗枝の内面には、大きな周章狼狽が起こった。昨日から哲に触れたのははじめてである。まさか哲の体が氷のように冷たいなんて……体温がなかった。ショックを感づかれないように、表面を冷静に装うのに苦労する。
「若いつもりでも、年取っているんだよ。自分をだいじにしなくては……」
 紗枝の手をとって船内へ行く。冷たい手――でも、死者とは思いたくない。
「ほんとに、この先のひとり旅、だいじょうぶかなあ」
「あたりまえよ。いつだって独りで行動しているんだよ。まだまだ安心していてだいじょうぶ。心配ならついてくれば……」
 哲は寂しそうに微笑んで、
「それができればね……オレの知っている母さんは、年取っていたけれど、五十歳前だったよ。姉貴はそれより二十も上だもの。気をつけてくれよ」
「はい、はい……気をつけます」
 冗談のように返しながら、心配してくれる哲がうれしかった。
 遠くの湖面がトルコ石色をしている。一万年以上もかかって氷河の石灰岩をえぐるようにしてできた湖である。真ん中にちいさな島があり、背の高い木が湖のまとめ役のように立って、まわりの草も山も湖に映させ、大空までを含めた景色のポイントになっていた。水は単一の色ではない。いろいろな濃さの青や碧や緑をない交ぜにし、そこへ雪の山や岩の山を映している。風が吹くたびにそれらがきらめくと、うつくしさはいや増した。船の縁から湖水をのぞくと、かなり深くまで澄んで見えた。
 席がいっぱいになる人数で打ち切られた。船が動き出す。哲は後ろに立っていた。説明が一段落すると、後ろのドアを開けて、写真を撮りたい人が外へ移動する。紗枝も哲と出た。風がつめたい。でもなれると冷たさが心地よかった。右手にマウント・ロブソンが傾斜した断層を雪の肌に見せて大きい。その手前には氷河が広がっていた。夏でも溶けない氷河は長い年数を白いままに見せているのであろう。山火事で燃えた跡も残っている。奥に進むにしたがって、岸辺で見ていた景色とはまったくちがった荒々しさが見えてきた。船に乗らなければ見ることのできない絶景だと説明書には載っていた。
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2018年04月30日

NO...4917 スピリッツ島 7-5

        5

「あのころは、人工透析なんていう言葉もなかった。ところがお前が死んで数年後に、それが新聞に載ったんだよ。悔しかったねえ。読んだときは歯ぎしりした。ーー何で今ごろこんな方法が出てきたのかと。でもね、すぐあとに、それでよかったと思ったのは、一回の透析が五十万円かかると知ったから。どこかの社長が七百万円つかって、金の切れ目が縁の切れ目と言いながら死んでいったと書いてあった。そんな高価なもの逆立ちしたって使えるはずないものね。月給が一万円時代だからね。でも今は進んだよ。健康保険が面倒を見てくれるんだよ。悔しいねえ。やっぱり悔しい」
 哲は黙って聞いていた。紗枝はかさぶたを毟ったような、むごい話をしていると思うが、どうしてかこの話はしてみたかったのである。
「お前が死んだときから、わたしは、神などいないと考えるようになったよ。神などは精神的に弱い人間のつくりごとだと思う。近ごろヨーロッパヘ旅行したけれど、どこに行っても教会の中には十字架に掛けられて死んだキリストがいた。人々は死を怖れるから、何かを頼りたくて考え出したものかも知れない。そう思わない? 」
「姉貴にはかわいそうな思いをさせたね。大変だったな」
「もし神がいて、全知全能というのなら、人間に公平のはずだよ。お前が死ぬのを助けてくれていたら、わたしは神を信じたかもしれない」
 紗枝はむきになって言った。
「その点、父さんの宗教はおもしろかった。まったくのご都合主義で。神棚も仏さんも同じ部屋に同居させて、両方を拝んでいたもの」
「あれは生にたいする敬虔な気持というのかもしれないよ。あの素朴さは、そう馬鹿にしたものじゃないさ」
 陽がすっかり山影に回ってしまい、外は落ち着きをもった静寂に変わっていた。
「お前、お風呂にはいれば」
「それはうれしいね。五十年ぶりの風呂だ」
 紗枝は、バスルームに行き、バスタブに湯をはった。少し熱めにしながら、気持のよい下着を着せなければと考える。時計を見ると、七時半。まだ店は開いていると思う。
「さあ、もう入れるよ。お姉ちゃん、お前のお風呂に入っている間に、町へ買い物に行ってくるから」
 紗枝はショッピングセンターに向かって駆けた。留守の間に哲がいなくなると困ると思ったのである。百メートルも走ると、心臓が痛くなった。それでも歩いたり、また走ったりと気がせく。下着を買い、胸に「JASPER」 と書いてあるTシャツも買う。それに暖かそうなセーターも。そしてジャージのトレーニング・パンツのようなのも買った。ズボンを買おうにも売っていなかった。店を出ると再び飛ぶようにして帰った。気はあせるが、七十を越えた体は急ぎ足がせいぜい。息を切らして部屋に戻ると、哲は湯から上がって、バスタオルで体をつつんだまま窓の前にいた。よかったと紗枝は安堵する。
「何を急いでいるの」
 紗枝は余計な心配をしたことにおかしくなりながら、ビニール袋をベッドの上に逆さまにした。
「ジャ、ジャーン。お前の下着。着替えるとさっぱりするよ」
「これはありがたい。何しろずっと同じものを着ているからね」
 紗枝は、引き出しからランドリーの袋を取り出して、バスルームヘ行き、脱いだものをそこに入れてクローゼットに置いた。
「汚いの、捨てるよ」
「近ごろは、こんなものを着るの。パンツもメリヤスなんだね」
「上に着るのはTシャツというんだよ。木綿のYシャツなんかより伸び縮みがあるから着やすいよ。あのころはどこに行くにもYシャツと学生服だったね。今は合理的になって着るものも体にらくなものが多くなっているよ」
「これはいいねえ。着心地がいい。五十年の間にいろいろ変わったものだ」
「そりゃあそうだよ。お前のこと今浦島って言うんだよ。日本に帰ったらびっくりすることばかりだよ。お前の大学の汚い寮もとりこわされたらしいしね」
 哲はこざっぱりした体をベッドに横たえた。紗枝はその幸せそうな顔を見届けてから、バスルームに行く。
 風呂からあがると、哲は寝息を立てていた。音がしないように気をつけながらベッドに入ったが、目を覚まさせてしまう。
「姉貴、眠くならないか? 」
「眠ってたまるかさ。お前と五十年ぶりに会えたんだもの」
 紗枝はこの気楽さがいいと思う。長い人生で大変なことがあるたびに、哲が生きていたら助けてくれただろうと何度思ったかしれない。その哲がここにいる。うれしくてたまらなかった。
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2018年04月29日

NO...4916 スピリッツ島 7-4

          4

 ホテルに帰った二人はお腹がくちくなって、気持ちよくベッドに倒れこんだ。
 紗枝はせっかくの再会だから哀しい話はよそうと思っているのに、なぜか話は病院のことになってしまう。
 「入学翌年の夏に、お前は血尿が出てびっくりしたと、夜行列車で東京から帰ったでしょ。往診に来てくれた伊東先生は診ると首をかしげて言ったよね。幼いときにやった腎臓病の再発ですって。そして慢性腎炎になった場合、成人してから再発しやすいと説明したときは、みんな何とも言えない気持になって落ちこんだ。母さんは、お前が風邪をひく度に心配して、試験管二本にオシッコをとっては蛋白検査をしていたのにね。どうしても蛋白が出てしまうと気にしていた。でもお前は無事に成長し、異常を見せることもなく過酷な受験勉強も突破したので、もうだいじょうぶとみんなで安心したのに……。知り合いの佐竹先生が信大病院にいたから、そのツテを頼ってすぐに入院できたのよね。それから二十日間の闘病生活。母さんが白い割烹着姿で付き添っていたっけ」
 ベッドに横になって天井を見ながら話しているので、哲の顔は分からない。紗枝は話しながら哲を気にするが、冷静に話せるだけの年月が経っているとも考えた。
「入院のとき、父さんがリヤカーに道具を積んで引っ張って行ったね。病人の布団、付き添いの布団、それに鍋や七輪もね。廊下で煮炊きしたんだよ。お前、わたしの持って行ったオルゴールのこと憶えている? 音楽らしいものなんてあれだけだった。ショパンのノクターン。お前は、チャイコフスキーの悲愴が聞きたいと話していたよね。それに古本屋で宗教哲学の本を探してきて欲しいとも言った」
「そんなことを頼んだの、思い出すねえ……」
「どちらも思いをとげてやれないまま、お前は死んじゃった。病状があまりにも早く進んだからね。わたしはお前がどんな気持でそれらを欲しいと言ったのかが分かって、せつなかった。お前は、どうして自分だけに、こんなつらい運命が降りかかったのかと考えていたはず。――胸が裂けるくらい哀しかったよ」
「……」
「わたしは毎夜、病院から帰ると寝ながら何度そのことを考えたかしれない。眠れないままカーテンを開けると月の光が冴えていた。お前も病院で眠れないでいるだろうと、わたしは泣いた。母さんは病院泊まり。父さんとわたしは、朝に晩に病院へ顔をだしたよね。夏だというのに、厚い布団を股にはさんで、お前は寝返りをうっていた。わたしが眠れないのと聞くと、うん眠れなくて困ると、いつも言ったよね」
 部屋が寒くなってきたので、紗枝は入り口近くの璧に寄って、エアコンの温度を上げた。
「それは何? 」
「これ、部屋の温度調節ができるんだよ。二十四度にしたから、じきに暖かくなる」
「松本の炬燵だけの冬の生活とはずいぶん違うんだね」
「日本でも、今ではエアコンディッショナーで、部屋全体を暖めたり、夏になると冷やしたりするよ……。どこまで話したっけ。そうそう、それでね、わたしは佐竹先生に呼ばれたのよ。先生は、深刻な顔をして、おシッコさへ出れば……そう言ったきり、下を向いてしまった。先生は『もうだめですよ』そう暗示していたのに、わたしは気づかなかった。何としてもオシッコが出るようにしてやりたいと、それに気をとられていたのよね。利尿剤だというから、スイカを食べさせたらと思うが、食欲はまったくないし・・・考えは堂々めぐりだった。わたしが聞いたよね。寝床の上で尿瓶にオシッコしようとするから出にくいのかもしれない。下におりてオシッコしてみる? と。全身に力のないお前をみんなで抱きかかえるようにしてベッドの脇へおろした。お前のおチンチンをつまんでおまるの上に持っていった。栗くらいの小さなおチンチンだった。男の子のおチンチンを持ったのは初めてだったから、こんなに小さなものかと驚いた。かなり力んだが結局オシッコは一滴も出なかったね」
 その夜、哲は尿毒症を起こしたのである。全身に震えがくると、医者が飛んで来て、いろいろな処置をしたが、家族は遠巻きに見ているだけ。どうしたらよいかと、ただただ、うろたえた。
「それでもお前の頭はしっかりしていたよね。普通は意識が混濁するというのに、しっかりしていたよ。あの晩みんなで夜通し付き添った。お前は苦しそうで、眠れないでいる。わたしは、せめて気を楽にしてやりたかった。『何して遊ぼうか……』。眠れないでいるお前に言うと、『馬鹿モン』。お前は力なく、さびしそうに笑ったっけ」
「……五味はどうしている? 」
 哲は小学校から高校までいつも仲良しだった五味のことを聞いた。
「五味さんね、東京で会計事務所を経営しているよ。お前の言ったように重厚な性格の人だから、人がついてくるのよね」
「五味がねえ、あいつならきっと人の面倒見がよさそうだから、仕事は成功しているはずだよ。五味と見たライムライトを思い出すなあ」
「五味さん、高校時代の友だちと、お前の追悼文集をつくってくれてね、そこにお前と議論したチヤップリンのことを書いているよ」
「ライムライトの音楽はよかったな。姉貴メロディーを憶えている?」
 哲が口ずさみはじめると、紗枝も合わせた……
 窓から見える白樺が幹の白さをくっきりさせて、二人のハミングに合わせるように風が葉を揺らせた。
「お前がいなくなってからも、五味さんは両親をよく訪ねてくれてね。今でも親子三代の付き合いがずっとつづいているよ。わたしの三男がドイツに留学するとき、お前の代わりだからって、帝国ホテルで送別会をしてくれてね。お餞別までくれた。そのあとみんなで夜の日比谷公園を散歩したよ。お前の話をしながらね」
「いいやつだな。いつも変わらないやつだ。彼らしいよ。五味に会いたいな」
 
 夕暮れの庭に、赤い車が姿を見せ、ゆっくりと駐車場に停めた。ドアが開く。運転席から夫が降りた。後ろのドアから小さな女の子二人がつづく。最後に顔を見せた妻は小さな子を抱いていた。夫が子を受けとると、妻が車から乳母車を出して子を乗せた。こんどは車の後方からカバンをいくつか出す。女の子たちが、それぞれ縫いぐるみと、自分の荷物を持った。上の子のカールした金髪がゆれ、下の子はポニーテールの髪型。夫が大きなカバンの上にもう一つのカバンを載せて引っ張り、もう一方の手で大型のカバンを提げながら、ホテルの入り口に向かって歩き出した。
「ああいう家族、やってみたかったな」
「そう思うだろうね」
 普通に生きていれば、家族をもつことなど当たり前なのに、そこから外れた者にとっては、格別にうつくしい情景として映るのだろうと紗枝は哲に同情する。
「姉貴は、けっきょく高井と結婚したんだね」
「そう。でもね、結婚なんて絵に描いたようにいいものでもなかったよ。生前お前は、高井が『姉さんをオレにくれ』って言ったと話していたよね。そのとき『お前じゃむりだ、あきらめろ』と返事したとも話した。きっとお前は性格の違いを見抜いていたんだろうね。でもお前が死んで一ヵ月ぐらいして手紙をくれてね。父さんと母さんに相談したら、お前が先に死んでもうしわけないと思って、そうしてくれたんだよと言うから、付き合ってみることにしたのさ。最終的には自分で結婚を決めたのだから、人のせいとは言わないよ」
「何、うまくいかなかったの」
「そう、離婚した」
「子どもは? 」
「みんな大きくなるまでがまんして、それからつい最近になってしたのさ」
「姉貴も思い切ったことするね」
「そんなことはない。さんざんうまくいくように努力した末だよ。でもね、向こうが単身赴任をきっかけに家を出て、別に所帯を持ち、帰ってくるのを嫌がるのだからしかたないさ」
「驚いたね。やっばりオレのアドバイス通りにしていればよかったのに……」
「そんなことはないよ。おかげで子どもたちがいるもの。お前とも血がつながっているんだよ」
「そう言われると、うれしいね。オレの血がつながっているのか。死んでも残るものは遺伝子か。そのほかは何にも残らない」
「思い出が残る……お前もぜひ子どもたちに会わなくちゃ。みんな叔父さんに会えばよろこぶよ」
「叔父さんか……。それもいいなあ……」
 
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2018年04月28日

NO...4915 スピリッツ島 7-3

              3

 表にでると、コートが欲しいくらいに冷えていた。
 ロッキー山脈の北の端にあるジャスパーは、四方を山に囲まれ、端から端まで歩いても二キロほどで終わる小さな町である。夏でも西には雪を頂くマウント・ロブソンがそびえ、南も高い山が岩石の山肌をあらわにして、東の方へとつづく。
 駅から歩いてホテルへ来る時、食堂やスーパーマーケットがどこにあるかをチェックしてある。レストランは、通りへ出て、西へ二本行ったところにあるはずと思う。
「お前はカレーが好きだけれど、ここではむりだからね。たしか韓国料理の店だから、ここなら、ご飯が食べられるよ」
 店の中は、まだ夕食に早い時間なので空いていた。
「ピビンバを二つください」
 店員は怪訝な顔をして、二つですかと聞き返す。「ええ、二つ」と紗枝はすました顔で言う。
 哲に向かって、ビールはどうかと聞くと、アルコールは飲まないと言う。酒好きなはずだが、何か事情があるのでは。向こうの世界のことを、聞いてはならないと再び感じた。
 水と箸とアルミのスプーン、それに小皿に盛ったものを運んで来て、紗枝の前と空いている席に置いた。紗枝はそれを哲の前に置きなおしてやる。
 十五分はど待つと、石の器を運んできた店員が、器でやけどしないように気をつけてくださいと付け加えてテーブルに置いた。中でプチプチとご飯の焦げる音がする。
「上にのっかっている目玉焼きと具を全体にまぜてから食べるとおいしいよ」
 哲はアツアツと格闘しながら、スプーンを口に運んだ。
「うん、これは辛くておいしい」
 小皿は、大根の酢漬とサツマイモの煮つけ、それにキムチだった。
「久しぶりに家に帰ったようだ」
 哲が何かを言うたびに紗枝はしあわせを感じる。
 器の中が半分ほどになったとき、また昔話が出た。
「お前の合格した晩、ラーメンの出前注文したの憶えている? 」
「中町の『喜楽』からとったんだ」
「そう、三十五円だった」
「あのころラーメンがご馳走だったなあ。残った汁のなかに冷ご飯入れて食べた。うまかった」
「父さんが焼酎を飲みながら上機嫌で告白したことも憶えているでしょ」
「なんだっけ」
「こうなのよ。(紗枝は父の真似をした)なんと言っても、毎朝、氏神さま、天神さま、四柱神社へお願いに行ったで、ご利益があったというもんせ」
「いやいや、姉貴そっくりな言い方だ」
「お前は受験勉強をするとき眠くなるからと、火の気のないところでオーバーを着て、軍手をはめた。毎晩マイナス五度や十度にはなっていたねえ。父さんは机の周りを麻袋で囲って、すこしでも寒くないように気遣っていたんだよ」
「おやじには、誠意というものがあったな。寮へ牛乳でも飲めと封筒の中に三百円入れて送ってくれたことがある。自分の酒代を倹約したんだと、オレにはすぐに分かった。土下座しておしいただきたい気持だった」
「合格した日のことだけど……、あの晩わたしが話すとお前は大笑いしたっけ。電報配達がきたときね、母さんは雑巾がけしていた。わたしはデンポーっていう声が聞こえたので二階から転げるように降りて行ったのよね。母さんは電報を持ったまま、手が震えて開けることができない。しまいには陽の方へ透かして、叫んだ。『短いーッ』ってね。パストウと短いのが合格、不合格のときはサクラチルトウだと、何べんもお前から聞かされていたので、『短いーッ』となったんだよ。そのあと、ゆっくり開けてじっくりと眺めていた。それからお仏壇に供えたっけ」
「よほど緊張していたんだね。あの日オレは映画を見に行っていた。帰って合格を知ったとき、拍子抜けした感じだった。いざ合格してみると、そんなものだった」
「でも、あの夜は一家四人がそれぞれに幸せを、かみしめていたと思うよ。お前は最大の親孝行をしたのさ。母さんは、受験勉強が終わってから、好きなラジオの音を大きくして浪花節や歌謡曲を楽しむようになったね」
「家族ってなんだろうねえ」
「お前が死んで、逃げ場のない痛みを感じたのが家族さ。わたしは人生に残酷な哀しみがあるのを、はじめて知ったよ。すぐ隣の家の人は、どんな言葉を掛けてくれても、哀しみは感じないですむんだよ。ところがね、同じ屋根の下にいる家族は気が狂いそうになるんだもの」
 言いながら紗枝は席を立って会計をした。これ以上そのことに触れては哲がかわいそうだと思えたからである。
 店員が手つかずのビビンバをふしぎそうに眺めていた。
 
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2018年04月27日

NO...4914 スピリッツ島 7-2

     2

 思いがけないことが起こって、夢中で歩いてきたので足の痛いことも忘れていた。紗枝はやれやれと靴を脱ぐ。足が開放されると、のどが渇いていることに気づいた。
「コーヒー飲む? 」
「うん、でもどこで? 」
 怪訝な顔をする。
「ここにあるのよ」
 そう言いながらテーブルの上のコーヒーの包みを開け、備え付けの道具の蓋を上げて、洗面所からピッチャーで運んだ水を入れる。スイッチを押すと、間もなく音がしてコーヒーの香りがひろがった。哲は簡単に操作できるコーヒーメーカーに見入った。
「いいものがあるんだね」
「そうよねえ。考えれば、コーヒーは喫茶店で飲むものだった時代しか知らないものね」
「姉貴、駒場祭に東京へ出てきたとき、渋谷でコーヒー飲んだのを憶えているかい? あのとき、コーヒー飲むのは初めてだと言って、砂糖壷の半分も砂糖を入れたでしょ。あれは恥ずかしかったな」
「どうしてあんな苦いものを飲むのか不思議だったもの。コーヒーは小説に出てくる飲み物だと思っていたからね」 
 コーヒーカップを手にすると哲は、窓際のイスにかけて、懐かしそうに香りをたのしんでから、一口をいとおしむように口に含んだ。
「生き返るようだ」
 しんみりと言う。
 紗枝はその言葉がおかしかった。
「もう、生き返っているじやない」

 窓側のベッドのブランケットを持ち上げた紗枝は、足を滑りこませながら哲を眺めて、ほんとうにここにいるのは弟かと、足をつねってみる。
 (髪にウェーブがあるのは、父親似、鼻の高いのは母親似。笑うと私にも似ているところがあるかな)
 肉親を感じた。
「ねえ、父さんと母さんに向こうで会った? 」
「会わない」
「あの世って、みんなに会えるんじゃないの? 」
「だれとも会えないよ」
 素っ気ない言い方に、彼岸について聞くことは、タブーだと考える。どうせ死ねば分かることだから、聞くこともない。でも哲の感じではあの世も孤独な世界のような気がする。魂は浮遊しているだけだろうか。心という形のないものはどこへ行くのか。科学者が科学の研究を推し進めると、最後には割り切れないものが残ると書いているのを読んだことがある。哲が出て来られたのは、どうしてだろう。聞いてみたい。だが聞けば、あの世に帰ってしまうかもしれないと怖れる。
 右足の変形しているところが痛むので、暖めたらやわらぐかと、ブランケットの中で手に包みこむようにしてもんでいると、何だか松本の家の二階のコタツにはいっている気がしてきた。
「コート脱いだら……。あれ、お前のそれ、大学に合格したとき父さんが買ってくれたのだよね」
 見覚えのあるコートはよく似合っている。
 哲は思い出したように、ポケットから若緑色の実を取り出した。
「はい、おみやげ」
 細長い松ぼっくりである。見たことのない形だ。
「樅の木の球果だよ」
「へえー、樅の木には、こんな形が生るの。大きな体にスマートなのが生るんだね」
 紗枝は、手の上の松ぼっくりに見とれながら、
「クローゼットにバスロープがあるから、それを着るといいよ」
 コートを脱いだ哲は、クローゼットからバスローブを持ってきて、くたびれたYシャツの上からはおった。タオル地の白が哲の若さを際立たせる。
「お前と会えたなんて、夢のようだね。死んだばかりのときね、夢にでもいいから出て来てほしいと、ずいぶん待ったのに……。お前はちっともわたしに同情しなかった。一度だけ信大の講堂へ講演会に行ったとき、演壇近くにいた人がお前とそっくりだったので、いそいで近寄ってみたけれど違っていた。薄情だよ、お前は。夢にさえ出てこないんだもの」
「それは、もうしわけない。でもね姉貴、思わないかい。体って厄介なものだ。この大きな体のちいさな一部、腎臓という器官がだめになっただけで、死んでしまうんだから……」
「あのときお前の腕から時計を外したらね、日焼けした体のそこだけが白かったよ。母さんね、それを見て、ひと月前には美ヶ原へ登ったのにと泣いたよ」
 哲は思わず目に涙をにじませる。そして口ごもるように間を置いてから、
「オレだって、命を絶たれるのは不可解だった。何でオレが死ななければいけないんだと」
「そうだろうねえ。どうやらお前は天国に行っても、抹香くさくなっていないみたい。そこがお前らしくていいなあ……」
 紗枝は五十年が消えたような言い方をする。
「進路を決めるとき、わたしに相談したよね。理論物理に進みたいけれど、親をみなくてはいけないから、金のことも考えなければと……迷っていた。それから、こうも言った。できたら哲学やりたいけれど、これだけは食べられないから絶対だめだなって」
「九月から専門に進むときだったからな。まさか二学期が始まる日に、死ぬとも知らずにね……」
「ほんと。あんなことが来るなんて……。死ぬっておかしなことだよね。何もかも無になってしまうもの。人はすぐ先に死があると分かったら、努力なんかしなくなると思うよ。もっとも、ガンで死期が三ケ月先などと言われた人が、その三ケ月を充実させて生きたという話を読んだことがあるけれど……。ふつうはそうはならないと思う。お前が死んだときね、人生の行き着くところが、よくよく分かった。わたしの人生観はあのときを境に変わったよ。とにかく人は死ぬんだと、そのことは、どんなことよりも自分の中で強くなった。宗教家や哲学者は、いろいろな意味づけをするけれど、死ねば何にもなくなるものね」
「そうかもしれない。オレも死んですべてが無になった」
「やっぱり心残りでしょ。戦後十年目だったからね。まだ日本中が食べること中心にものを考えていたと思う。職業も食べられるかどうかが選択の条件だった。今だったら好きな道へ進んでも、最低は食べていかれるよ。それだけ世の中がよくなっている」
 いつの間にか部屋の中が暗く感じられるようになって、外の明るさが目立ちはじめた。ジャスパーの夏は、十時ごろまでは明るい。紗枝は哲といっしょに食事に行きたいと考えた。
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2018年04月26日

NO...4913 スピリッツ島 7-1

       1
 
 雨上がりのジャスパーは、山に真綿をうすく引き伸ばしたような雲がかかり、松本の夏山に似ていると紗枝は思う。行けるところまで山に近づいてみたい。なんとなくそう考えてホテルから一つ目の角を右に曲がり、気軽に山へと向かった。
近そうに見えた山だが、歩きだすと簡単ではなかった。だんだん山全体の姿が見えなくなり、歩いても、歩いても両側に針葉樹林がつづくだけになる。夏物のパーカーを通して、体の芯に冷気が泌みこんでくる。がまんできなくなって進むのをあきらめて引き返そうとしたときである。
 林の中で何かが動く気配を感じる。
 ――背筋が凍りつく。
 逃げようにも足がすくんで動けない。
 暗く、もやっている奥から白っぽいものが現れた。
 ( ニンゲン、人間だ――)
 熊ではなかったと、安堵の胸をなでおろす。
 コートを、ざっくり羽織った男は声をかけてきた。
「どこまで行こうとしているの? 」
 ―― 怖がっていると見破られてはまずい。
「いえね、何となく山に見とれて歩いていたんですよ。やっぱり年取ると歩けるようで、長くは歩けませんねえ」  
七十という年齢を隠れ蓑にして平静を装いながら、来た道を走れるように体の向きを変える。相手はそれには頓着せずに明るい声を出した。
「その齢で、そのくらい歩ければ上等、上等。この山の色、雨上がりの松本に似ているでしょう」
 マツモト?……思いがけない。相手はたしかに松本と言った。それに話し言葉も日本語と気づく。背が百七十センチ上はあろうか。髪にウエーブがあり、彫りの深い顔立ち。
 ……弟もこんな感じだったと思う。
「もしかして、サ・ト・シなの? 」
 そんなはずはない。そう思いながら……聞こえるか聞こえないほどの声にしてみると、相手は聞き逃さなかった。
「うん。姉貴が来るのを待っていたよ」
 絶句する。
 何がなんだかわからないままに、目の奥から涙があふれた。
 ひとり旅の心細さから幻影を見ているのだ。早く宿に帰ろう。引き返しはじめると、相手も並んで歩き出す。
「お前、もう死んじゃったんだよ。五十年も前に……出てくるはずないじやない」
 まっすぐ前を見て、どんどん歩きながら、強い言葉をつかう。そうしながら、手の甲で涙を拭いた。拭きながら荒い息をして、なおも早足で歩きつづける。
「そうなんだよな……でも出て来れたんだ」
 相手は、紗枝のペースを崩すような、ゆったりした話し方をする。
「どこから? 」
「それは言えない。言ってはならないオキテのようなものがある」
「誰が決めるの。エンマサマ? 」
「エンマサマなんて、いないさ」
 声をたてて笑った。笑い方に憶えがあった。
 ……歩をゆるめて横を見る。青年らしいさわやかな額、じっと前を見つめて歩く目はたしかに弟のものだ。それにこうして二人で歩いた日があったような気がする。哲が大学入学のために上京する前の夜のこと、夜中に散歩しようと哲が言いだして、ススキ川の淵を歩いたのだ。
「お姉ちやんといっしょにホテルヘ行く? 」
「うん、ようやく会えたからな」
 紗枝は、自分のことを 「お姉ちゃん」と呼んでいる。並んで歩くのは二十歳のままの弟。大またで歩を運ぶから、あわせて歩いていると、背中に汗が流れはじめた。
 深い緑色の二階建てリゾート・ホテルは大きな樹木の中にある。入り口の看板には「chateau jasper」と金文字の筆記体が見えて、両側の花壇に赤と白のペチュニアが咲いている。こじんまりした清楚な入り口をロビーに行くと、奥の暖炉に火が燃えていた。紗枝は近寄って、すっかり冷たくなった手をかざしたが暖かくはない。雰囲気づくりの人工火と分かって、おかしくなりながら哲を振り返ると、目立たないところに立って、じつとこちらを見ながらニコニコしていた。

 部屋のドアーにカードを挟んで、赤が緑になったのを確かめて押す。
「ホテルの人、お前のこと気づかなかったねえ」
 ほっとしながら言うと、
「そりゃあ、そうだよ。姉貴にしか見えないもの。そのカードが鍵の代わり? 」
 不思議そうに聞く。室内に入るとあたりを見回して、まるで映画に出てくるようだとびっくりしてから、二台並んだ内側のベッドに長いからだを投げだした。
 自分の部屋のように遠慮がない動作を紗枝は好ましく眺めた。

 
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2018年04月25日

NO...4912 スピリッツ島 7-序

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
68歳で小説を書こうと思い立ちました。そして最初から「同人誌」は故郷・長野県の会に参加したいと考えました。PCで検索して、小島義徳氏が主宰される「0の会」にお願いすることに。ラッキーでした。ここは書くことに意欲的で巧みな皆さんの集まりでしたから。
「スピリッツ島」は、たった一人のきょうだい・弟を20歳で亡くしたわたしが、子たちに「こんな叔父さんがいたんだよ」と伝えておきたくて書いた作品です。
この作品に信州文学賞をいただきました。小さな授賞式に、子と孫たち全員、NY在住の娘夫妻まで参加、前日は皆で湯田中温泉に泊まりお祝いをしてくれました。
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         「スピリッツ島」
               序
 カナダの大陸横断鉄道旅は、バンクーバーからトロントまで三泊四日、週三回夕方五時半に出発する旅である。
 出発一時間ほど前から、ホームにギターを弾きながら歌う歌手と、小さなグラスワインが発売されて、出発祝いの雰囲気を盛り上げる。
(話は前後するが、正月集まった時、今年の夏は、家族みんなでケープコードへ集まり、そこで一週間を過ごそうと子たちが決めた。ここは、NYにいた時、夏を過ごした思い出の地)
 紗枝は、仕事を持つ子どもたちより一足先に日本を出発し、鉄道旅を選択する。カナダ西海岸は初めてなので、バンクーバーに一週間滞在し、この街や花いっぱいの公園があるビクトリアまで足を伸ばしてから、いよいよ大陸横断鉄道に乗る夕方になった。
 列車の一人旅は用心が第一と考えて個室をとった。乗車口は普通列車とは別で値段は二十二万円ほど。ちなみにシーズンオフは七万円ほどだという。
 指定された個室は壁に収納されているベッドと座るところ、それにトイレとトイレの上に洗面台がついている。第一印象は監獄のような殺風景な個室という感じだった。だから乗ってすぐにベッドをセッティングしてもらう。こうすると上等になって、まくらもホテル並みのふかふかなのが二個。厚みのあるベッドすれすれに窓があり、風景が車窓を流れると、いかにも長い旅の始まりという感じで気分が高揚する。
 しばらく部屋にいると、夕食の案内があって食堂車へ。食事は白いテーブルクロスの食卓を囲んで四人掛け。陶器の皿にグラスとおしゃれな感じ。なかなかのご馳走も並んだ。
 そのあと、列車最後尾のラウンジに移動して皆で楽しんだ。ここには飲み物・お菓子・フルーツ類などが常に置かれて自由に手にとることができる。そして、部屋の隅の階段を上がると展望車があり、限りなく広い景色が気持ち良く目に飛び込んで来た。
「どこまで行くんですか?」
 人の良さそうな紳士が紗枝に声をかける。聞くとイギリスからとのこと。
「トロントまで。そこから飛行機でニューヨークの娘の家に行き、一緒にケープコッドまで行きます。日本から他の子たちも来て、そこで家族全員が一週間を過ごす予定です」
 紳士は老婆の一人旅を不思議がって声をかけたようだが、納得したらしく、いろいろ話しながら紗枝の持っているソニーのカメラに興味を示した。ラウンジは乗客で賑やかになる。オーストラリアから来た夫妻は夫の定年退職記念の旅だとのこと。列車には部屋とは別のところにシャワーもついていた。
 翌朝、窯の中に火が燃えているかと思うほど真っ赤な太陽で目が覚める。眠っている間にロッキー山脈を越えて清々しい朝になっていた。
 やがて列車は高原の町ジャスパーに着いた。紗枝はここで下車して二泊三日を過ごす予定にしている。ホテルまで歩いたが大した距離ではなかった。チェックインすると、部屋に荷物を置き、すぐに外へ出る。せっかくの旅なので部屋で休むなどもったいないと思った。

 
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2018年04月24日

NO...4911

瀬尾まなほ著「お茶目に100歳寂聴さん」表紙は寂聴さんとまなほさんの並んだ写真てす。大学卒業してすぐから寂聴さんの秘書をして7年目のまなほさんは、若い人の書く文章ですが、気持ち良く読める文章です。
寂聴さんのことも平気でずけずけ書いてますが、温かな思いやりが感じられ、育ちの良いお嬢さんだなあと思えてきます。とにかく面白く読み終えました。
94歳の寂聴さんをおだてたり、励ましたり、心配したり、労ったり等をうまく混ぜながら日々を過ごしますが、寂聴さんもこんな秘書を得て幸せそう。
相性というのは面白いものです。
驚いたのは、寂聴さんの採用時、面接に行きながら作家であること著書がたくさんあることなど何も知らないのです。「ええッ、大学出てそんなこと知らないの」と思いますが知らないのです。
そんな出会いだから、こんなおもしろい秘書を見つけることができたのでしょう。
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2018年04月23日

NO...4910

春の山菜、タラの芽、コゴミ、山うど、その他を見本市に出品するほど綺麗に並べたのを頂戴し、もう一方に、野島の春の海から、あさりの大粒をたっぷりと頂きました。
それで三男が来るので、昼は春爛漫の食卓をと張り切っていると、そこへ筍と市民農園の自家製野菜をYさんが散歩ついでにと届けてくれたのです。
これ以上の贅沢な春のお昼ご飯はありません。ぜひご一緒にと誘い、ゆっくりして行ってもらうことに〜。
待っていた料理人は道が混んで大変だったと、昼を少し過ぎて到着。さっそく天婦羅に取り掛かり、私たち女2人は食卓に出てくる揚げたてを塩でいただき、三男は揚げながらいただくというスタイルでたちまち「春」がお腹に収まりました。
今日は三男の料理の腕を見直しました。実に美味しい天婦羅を作ってくれたのです。
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2018年04月22日

NO,,,4909

友から頂戴した新聞の切り抜きは、曽野綾子さんの「透明な歳月の光」という連載エッセー。そこに「少しの不謹慎さも許さぬ息苦しさ」と題した一文がありました。
『最近、公的な場での発言、野次、その他で、謝罪したり、辞任したりの人が出ると、私は言論の自由とはなんだったのかを考える。』
この記事は1/31付のものですが、未だに国会ニュースは程度の低いものに終始しています。
わたしはチャンネルをニュース番組に合わせるのが嫌になっています。
曽我さんは『人間は時々、後で考えると、適当ではなかったかと思われる発言をするものだ。その一言だけを捉えて。辞職に追い込んだりするのは幼児性の表れである』と。
人の欠点をあげつらうーー知性のかけらもないような失態の突き方をする野党。そしてひつこい記者たちの取材の品の悪さ。
ーーどうしたら、知性ある舵取りができるでしょうか。
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2018年04月21日

NO,,,4908

横浜金沢区洲崎町に古刹・龍華寺があります。ここは牡丹の花でも有名なところ。
今日はイーナを自転車の前かごに乗せて、花を見に行きました。
境内には花見物の人が50人ほどいたでしょうか。みんなカメラ片手に熱心に見物していました。
そう広くないところですが、丹精された牡丹の株が100株はありそうでした。
それぞれが大きく見事な花を咲かせています。黄色の牡丹は初めて見ました。色数はかなり多く、牡丹の花用に作られている傘は柄の部分が長く傘の部分は人のものより小ぶりにできていました。
とにかく大きな花は花の王者と言えそうでした。
帰りに花屋でシソとバジルの苗を買ってきて植えました。これで一夏楽しめそうです。トマトは風が強いベランダでは無理なので今年は諦めます。
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2018年04月20日

NO...4907

今日から夏の気温だと天気予報は言います。イーナの長い毛が気になりだしたのでカットすることに。電話すると、すぐ連れてきてくださいと。自転車の前カゴに乗せて能見台通りへ行きました。2時間ほどで仕上がると言います。
店の近くの友に電話をして「イーナのカットに来たから、待つ間ランチしない?」と誘いました。一年半ぶりに会うのでたのしみに待っていると、その人の亡くなった母親そっくりの人が現れてびっくり。
どうしてこんなに年取ってしまったのかな。でも考えてみれば、85歳なんだから当たり前です。「わたしの家に遊びに来るのはもう無理そうね」そう言うと「あそこまでは歩けない」と素直です。
ただし、頭はしっかりしていて意欲的。民俗学の話になると生き生きしてきました。自分の足で集めた資料を形にして残したいと話していました。
イーナに会いたいというので、駅前で待っていてもらい、店からピックアップしてくると、久しぶりに会ったので大喜びでした。 
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2018年04月19日

NO...4906

山椒の葉をもらいました。
それでくるみと、もち米を買ってきて、五平餅を作ろうと張り切りました。
まず、今朝は米3合にもち米1合を一緒にして炊き、これをすりこぎで適当に潰しました。それを丸めて小判形に。これをフライパンで両面に焦げ目をつけました。
一方、すり鉢で山椒の葉をすりつぶし、ここへ味噌と砂糖をいれます。そしてもう一方にはくるみ味噌も作りました。
両面わ焦がした小判形にこの2種類のみそをつけ、今度はガスのグリルに銀紙を敷き、ここに少しのごま油を塗って味噌に焦げ目をつけました。表面が焦げ始めると、良い匂いが漂いました。
仕上げは、割り箸を短く切って小判形の五平餅に横から刺して、持ち手を作りました。
以上、作り方は昔、おばあさんの作っていたのを思い出しながらです。簡単と思って作り出したのに、なかなか不恰好で、うまくいきませんでした。でも味はまずまず〜。
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2018年04月18日

NO...4905

わたしは誘惑に負けて、とんでもないものをAmazonに注文しました。
何を発注したと思いますか。無駄中の無駄物品
ある日、Amazonでこれを検索したせいで、その後わたしの行く先々にうるさくつきまといました。「どうですか?買いませんか」と。でも押し売りというのではなくスマートにやってきます。
最初の検索は「どんなものかな?」 程度でした。
さんざん逃げ回っていたのに、ついに一昨日「えいっ」。
するとさっそくご注文ありがとうございました。土曜日に着きますとメールが来ました。
いざ注文を済ませてしまうと、今度は品物到着が楽しみになります。
「うわーっ早ッ」何と火曜日の今日もう着いてしまいました。
さっそく開けて、適当に広げました。最後に布を引っ掛けて完了。
何を買ったか想像つきましたか?
答えーーハンモック。テレビを見るのに便利です。(^o^)
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2018年04月17日

NO...4904

昨日までの拙い小説、読んでいただきありがとうございました。
今日からは普通のブログです。
篠田桃紅は図形のような感じの絵を描く画家で、甥が篠田正浩監督。
この人の著書「!03歳になってわかったこと」を読みました。
歳を感じないほど仕事をバリバリやっているようです。
作品を収蔵する美術館・公共施設は国の内外に多く、こんなにすごい人がいるなんてびっくりです。
💮老いたら老いたでまだ何ができるかを考える。💮人を頼らずに自分の目で見る。💮自分の心が自分の道をつくる。💮幸福になれるかどうかは、この程度でちょうどいいと思えるかどうかにある。💮夢中になれるものが見つかれば、人は生きていて救われる。💮真実は見えたり聞こえたりするものではなく感じる心にある。💮運命の前ではいかなる人も無力、だからいつも謙虚でいる。💮志ある友は友であることが誇らしい気持になる。
以上が103歳で、感じる言葉のようです。
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2018年04月16日

NO...4903 二人作りしわが山斎は 11-11

    11
  長かったごたごたが解決すると、おだやかな日々がやってきた。
 京三は緊張から解き放たれたせいか退屈と向き合うことになる。
 定年前には、退職後の虚しさやりきれなさを耳にすることがあっても、そんな贅沢な……くらいに感じていた。むしろたまの休みに、ごろごろしていると、体の疲れがどんどん出て行くような気さえしたものだ。
 ところが、実際に毎日が休日と言うのは焦燥感を煽る。このままでは世間から取り残されるような気がして、イライラとジリジリが起きた。そんなときは本を広げても読む気がしない。まるで檻の中の熊のようにうろうろすることもあり、何をやってもおもしろくなかった。
 由紀子がいきいきとハワイアン・ダンスの会や、地域の集まりに出かけるのを見ると、さらにイライラがひどくなる。鏡の前で念入りにメークアップをしているのへ、
「何時に帰るんだ。オレの昼メシは」などと聞こうものなら、由紀子は決まって機嫌を悪くする。
「コンビニでもスーパーでも、今はできあいのものを売っているわよ。わるいけれどそれですませてください。わたしもたまには息ぬきがしたいもの。久美ちゃんと夕飯もいっしょにする約束をしていますから……ごめんなさい。チロチャン、パパをお願いね」
 言葉は柔らかいが内容はきつかった。出会ったころのような愛情を求めるのは、無理と分かっても、京三はおもしろくない。何か言い返したくなる。すると、
「あなたのような人を世間では、ぬれ落ち葉と言うそうよ」
 ひんやりと笑顔をつくる。こんなふうに変ったのは籍を入れてからのような気がする。情けないが、黙ってがまんするしかない。芳乃とは、歳が同じだったから、こんなことは起きなかったろうと思い、まあ、自分の選んだ道だからと自分に言い聞かせた。
 庭は最初、由紀子がいい加減にやっていたのを京三が引き受けて、本格的に始めた。五坪ほどの庭だが、土いじりはイライラがなだめられる。
 夜、寝ながら、あの小さな隙間を何の花で埋めてやろうかと、考える。何かヒントがほしいと思う。そうだ明日は園芸店をのぞきに行こうと計画をたてる。するとやすらかな気持ちで眠れるようになった。一日に何度となく庭に出て、あれこれ思いつくままにレンガを積んだり移動したりと、ほんのちょっとした空間にこだわった庭いじりをしている。
 庭はだんだん洋風になり、花が多い。そんな中でも牡丹の木は健全で、これが唯一自分の気持ちを理解してくれるような気がする。
 親友の宇佐美とも、何となく気まずくなって賀状だけの付き合いになった今、やはり寂しさと孤独を感じずにはいられない。                                   (了)

                         
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2018年04月15日

NO,,,4902 二人作りしわが山斎)は 11-10

    10
 
 京三は先に来ていた。
 久しぶりに見る芳乃は、ごたごたのころの夜叉のような顔とは異なり、見違えるほど明るい表情をしていると感じる。
 着席した芳乃は、
 「ついに戦い済んで日が暮れてーーになるわね」すっきりした言い方をした。
 「まあ、でもお父さんが、家に帰りたいと思うなら、今なら取り消すこともできますよ。そんなことはあり得ないと思うけれどーーね」
 笑顔で冗談めいた言葉まで添える。
 京三はたとえ冗談にせよ、こんなひと言が聞けるとは思ってもみなかった。定年を前にして過ちを犯し、そのことでさんざん苦しめた。その芳乃の口から、こんなに明るい言葉が出るなんて。
 愛憎とは不思議なもの。理屈で語れるものではない。二人で家庭を作り、そこを人生の唯一の場として育んできた。どんなことがあっても崩れはしないと思っていたのに、崩れた。
 芳乃にとって、それは大ショックだった。人生の大切な一角が音を立てて崩れてみると、何を信じれば良いかわからなくなった。
 あらゆる抵抗をしても守ろうとした。しかしまるで京三の頭の中の機械は悪魔によって総入れ替えされてしまったようになる。外観は今までの夫だから、その総入れ替えを認めることが難しかった。
 そんな経過をたどって今がある。淡々とした言い方ができるのは、京三に対して、「愛憎」がまったくなくなったからだろうか。

 時間になったので予約している「武蔵野公証役場」に赴く。もと裁判官だった人は、あまりにもあっさりした芳乃の財産要求に、二度「奥さん、これだけでいいのですか」と聞いてくれた。
 「はい、夫がそう言っていますから、それで結構です」
 簡単にお互いサインをしてそれぞれ書類を受け取って全ては終わった。

 帰りがけ、京三は気分が軽くなって、
「あなたの好きなものでも食べながら話をしようか」
 そう提案し、芳乃もあっさりと賛成し、近ごろベトナム料理の店が開店したようだから、そこへ行ってみたいと、先に立って歩き出す。
 
 スープが運ばれると、ちょっと変った味だと京三が言い、
「こんなオリエンタルの味って、日本人にあうわね」
 芳乃がスプーンをつづけて口に運ぶ。
「オレははじめてだが、これはあっさりしていてなかなかいい」
 と合わせた。
 おたがい古傷に触れることはせずに、子どもや孫たちの話をしてたのしんだ。
 別れ際、改札口で、芳乃は「サヨウナラ」と手を差し出す。京三がその手に力を入れないよう気をつけながら重ねると、芳乃はしっかりと握ってほほえんだ。
「元気でね」
 階段を登る京三が見えなくなると、芳乃は人形の手芸材料を見ようと足取りを軽くした。
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2018年04月14日

NO...4901 二人作りしわが山斎は 11-9

    9
 夏が過ぎようとしている午後、京三から封書が届いた。
「同棲という形をとつているが、自分も歳である。片をつけたいが、どうだろうか」
 文面はあくまでも柔らかに語りかけている。
 芳乃は覚悟をしていたものの、手紙を読むと、怖さが先に立って震えた。独りで生きていかねばならないという怖さである。
 京三は、この間に定年退職があり、人生を転換させている。そのとき郊外に由紀子名義で家も買ったが、そのことには触れていない。ただ、六十三歳のとき脳梗塞の軽いのをやった。由紀子は献身的に世話をしてくれた。そんなことが書いてあり、もう七十歳に近いから、いつ何が起こるか知れない。このままでは由紀子も落ち着かないので、きちんとしておいてやりたい。だからトラブルのないように財産問題を書類にして、あなたに送るつもりになったとあり、こまごま数字を並べてから、井の頭の家は芳乃名義にしたいと結んでいた。
 以前は「オマエ」だったのに「アナタ」と書かれていることに、京三との距離を感じる。
 芳乃は二人の子どもにそれぞれ電話で経過報告をした。二人とも、ここまで来てしまえば仕方のないことではないかと、割り切った受け止め方をした
 方をつけようと腹を決める。これ以上我を張っても、しかたない。それに住んでいる家がもらえるのだから、いざというときは、これを売ってマンションに住み替えれば老後資金は出るだろうと計算した。年金折半については「企業年金」は退職金の性格があるので京三側に行き、「厚生年金」の折半だけだと知ってがっかりもしたが、普段の生活は折半分だけで贅沢をしなければ暮らせそうである。
 ついに、芳乃は離婚をしてもよいと返事を出す。そして同封されていた離婚届に自分も印をおして役所に行き手続きをとって戸籍を独立させた。離婚後の姓は子供たちとのことを考えて今のままの姓を続けることにする。
 最後は、離婚に付随する公証人役場を吉祥寺本町にある「武蔵野公証役場」に決め、芳乃がまず行って、財産分割等の相談をしてから二人で行く日を決めた。内容は京三の手紙を持参してそれに沿ったものとした。
 当日になる。落ち合う場所は吉祥寺駅前の喫茶店にしてある。
 芳乃は意地にも老けたと感じさせないよう身支度に念を入れ、鏡の前で確かめてから家を出た。
 
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2018年04月13日

NO,,,4900 二人作りしわが山斎は 11-8

     8 
 眠れない夜がつづいて、気力のない日々も長くつづく。食べることなど、どうでもよくなっていた。体重が減ると、スカートがずり落ちるようになりベルトでとめる。
 そんなとき、新聞の下方に載った本の宣伝文が目にとまった。
「人生は落ち込んだときがチャンス!」そう書いてある。その字をじっと見つめる。
(そうかもしれない。落ち込んだときがチャンスかもしれない)
 本屋へ行った。目次を拾い読みしているうちに、こんなことで人生を終わらせてなるものか。割り切ろう、簡単に割り切れなくても、ここまで来てしまっては、そうするより仕方がない。芳乃のなかで、長く停滞していた気持ちが前へと向かって動き出した。
 悩みを差し挟まないように、ステレオの音を大きくして小椋佳を聴きつづける。普段はなんでもなく聴いている歌詞が芳乃の今をえぐり出して慰めた。
 ♪
 楽しい思い出ばかりだなんて
 言わないで
 こんなときに
 何の慰めにもならない
 泣かせて、泣かせて
 男にはできないことだもの
 泣かせて、泣かせて
 自分がくやしいだけ
 
 飲めない焼酎を買ってきて、夜はそれにグレープジュースを入れて飲み眠ることも試みた。
 やがて、立ち直ることができたのは、万一、京三からの仕送りが止まっても、自立して食べて行かなければならないという現実に気付いたからである。
 働こうと当たってみたが、五十過ぎの中年女に適当な職はなかった。こうなれば、仕送りをつづけてくれる夫を刺激しないことが得策だと功利的に考えだすーーそうしながら、じっくり自立して生活できる道を探そうと計算をした。
 そんなころ、デパートに「石井美千子の人形展・昭和のこどもたち」があるとテレビのニュースで知った。芳乃が惹かれたのは、そのアイデア。
 題は「卒業写真」で、小学校の卒業時にひな壇にならんで撮ったクラス写真と、もう一枚は五十年後の同窓会で同じひな壇で撮った同一人物の写真を人形仕立てにしていた。発想のすばらしさが印象に残り、何とか実物を見たいと思う。展覧会は横浜そごうだと案内がある。行こう。行けば、何か自分を変えてくれるものがありそうな気がする。
 
 会場に入るとすぐに、ほころびたセーターの袖口で鼻水を拭く少年の姿、袖口がベカベカになっている。毛糸パンツをスカートの下からのぞかせ、縄とびをする幼い子もいる。「嫁ぐ日」は花嫁が家の玄関を出るところ、近所の人たちが嫁さんを見たいと集まっている。「紙芝居」は自転車のおじさんが荷台で紙芝居を見せている。もらった飴を舐めながら、紙芝居に見入る子供たち。「胸をはだけて赤ん坊に乳を呑ませる母親」を、笑顔で見つめる夫と祖父母の素朴さ。
 作品たちは確実に芳乃を励ました。
(戦時中の物のなかった母たちの生活に比べれば、わたしの精神的な悩みなど気持ち一つで乗り越えられるはず)そう、前向きになった。
 自分でもこんな人形を作ってみたい……そんな気持ちがむくむくと頭をもたげた。会場の出口に売っている人形たちの本を買った。
 その夜、本を開いて長いこと眺めたが飽きなかった。人形作りをしよう……気持ちは一気にそれへと向かった。
 石井さんという人も自分で創作を始めたと書いてある。自分で工夫しながらやっていこうと考えるが、せめて顔をつくる材料の勉強だけはしなければと、翌日はさっそく吉祥寺の手芸店へ出かけて、人形づくりをしたいと告げ、いろいろなことを教わった。そして顔と手足を作る材料を買って帰る。だが、思ったようにはできなかった。それからもときどき手芸店に出掛け、いろいろと聞きながら形にしていった。
 人形にのめりこむと、苦しみは薄皮を剥がすように落ちた。
 
 季節はまた巡る。春いちばんの花々が一段落したころ、玄関前の牡丹のつぼみが大きく膨らみだした。そのピンク色を見たとき、人形の頬のように愛らしいと思った。そして気づいた。夫との共通の思い出を持つ牡丹で、真っ先に人形を思い出すなんて、わたしの気持は解放されたのかもしれない。
 人形は仕上がっていく過程で魂を持つようになり、存在を示すようになる。子どもたちの幼いころの写真を眺めながら似せて作ろうと張り切った。
 最初は似て非なるものとしか言いようのない出来栄えだった。すると次こそはと夢中になる。こうしてつくった人形を部屋のソファーに座らせると、家の中が賑やかになり出した。人形がいるということが、自分をなごませる。さびしさがどんどん溶けだして、健康な地肌が顔を出すと、心の大地に草が芽吹き、花が咲くようになっていった。
 しかし、人形では収入にならない。夫からの仕送りがつづくためには離婚をなるべく先延ばしすることを考える。金銭面では、いつも芳乃に誠意を見せていた。
posted by akino at 00:07| Comment(4) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする