母は、どちらかと言えば昔の教育ママ。女の子は女らしくと考えて、まず琴を習わせ、お花を習わせ、中1で日曜日には洋裁学校へ通わせました。
琴は山田流、師匠は鈴のような声で謡う人。うっとり聴きました。譜はなくて音は次のように覚えます。
例えば「六段の調べ」では「ッーゥンテンシャンシャシャコーロリンシャンッンテッテンテンシャシャコーロ」こんな感じです。
生花は「草月流」師範の免状までとりました。写真家・土門拳が勅使河原蒼風の作品を撮ったのがパンフレットになり素敵でした。戦後は、抽象画を描く人たちが出て来てわたしは生意気にも抽象画風の生け花に凝り、母は床の間に生けるような花を好むので嘆きました。
洋裁は型紙の原型の作り方から教わり、日曜基礎部を卒業。そのころ生徒はまだ着物姿で通う娘が多かったです。
女学校が新制度となり2年3年と進む中に、文学や哲学に目覚めたわたし。母が思い描いた「花嫁修行」はついに終わりを告げました。
思い出したでしょ。昔の親はこんなことをするのが一番と思っていたことを。ところがまるっきり違う人間になっしまった。(^O^)
でもあきのさんと違い文学にも哲学にも目覚める事なく封印していますが辛辣なものの見方や考え方だけが残りました。
Unicoさんのお父さんは、ほんとに子供に愛情を注ぎ、うまく育てましたね。今朝の話は、特別すごい。うらやましい。
そんな父親に育ててもらったUnicoさん、ご自分が思っている以上に幸せだったはず。感謝ですねえ。
あきのさん、2度同じコメントが出てきたら消してくださいね。
私は庶民の5番目の子どもで、習い事は憧れながらなんにもしていません。
それでも母の針仕事の合間の、昔話を聞いて育ちました。それが本好きになった原点と思っています。 そうしてブログに出会って↑のみなさんと出会えました。よかったです。^^
小さいときの育て方、自分の代になって「いい加減だった」と思います。何しろ他のことで手一杯。そしたら大きくなっていました。