2020年12月03日

NO...5870

明治4年、大山捨松は日本初の女子留学生として津田梅子らとともに岩倉使節団に随行、アメリカへ。
捨松11歳(津田梅子は7歳)でした。11年滞在し、帰国します。
わたしの家族がアメリカへ行ったのは、それから200年ほど後ですが、それでも現地でどのような人たちとどのような日々を過ごしたか、英語はどのように体に入ったかは見当がつきます。
多分生き生き伸び伸びした教育を受けていたはず。そして生涯の友Aliceを得てもいます。
帰国した翌年、妻を亡くしていた大山巌と出会いますが、相手が薩摩人で、薩摩弁をしゃべり、何を言っているのかわからない。ついに2人は英語で話し合ってお互いを理解したようです。だからこの2人が結婚しようと決めたのは、成り行きとして西洋人の結婚のような形をとったと思われます。その証拠に2人は結婚後、名前で呼び合っていたそうです。
捨松は戊辰戦争で負けた会津の家老の娘、巌は西郷隆盛を兄と慕っていた人。大きな違いを乗り越え、お互いを理解させたのは「西洋を知っている」というキーワードだったと思われます。
捨松が鹿鳴館の中心人物として活躍したり、看護婦学校の前身をつくったり、戦死した兵士の家族を見舞ったりするのも、フランス留学していた巌だから、理解できたと思われます。
posted by akino at 00:26| Comment(4) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私も興味を持ってその番組を見ていました。捨松さんの両親の教育も良かったし本人の素養もあって、またあの頃のアメリカの世情も理想に燃えていたし良い家庭に迎えられたことも良かったと思います。大山巌も当時の日本人としては進歩的で捨松さんの仕事を応援したわけですから捨松さんの生涯は満足できるものだったでしょう。
津田梅子さんも有名ですがもう一人の女性の生涯も知りたくなっています。
Posted by Unico531 at 2020年12月03日 08:15
Unicoさん
あの時に一緒に行った人は帰国して何も活躍しなかったのでしょうか。名前が出ませんねえ。明治の初めに「イワオ」なんて呼んでいたのですね。きっとよい人生だったでしょうね。
Posted by あきの at 2020年12月03日 09:43
何故に捨松か・・と思ったので調べました。
渡米の時に母の「帰る日まで捨てたつもりで待つ」という気持ちで捨松と改名したとあります。
咲子さんでした。^^
英語では捨松も咲子も感覚はおなじでしょうねぇ。
方便がわからずに英語で会話した。面白いですね。スペイン風邪の予後がよくなくて58才で亡くなってます。コロナのようだったのですね。
Posted by oss102 at 2020年12月03日 11:11
Ossさん
スペイン風邪で亡くなっているんですか。スペイン風邪で亡くなった人は5000万人とも1億人とも言われるそうですね。
きっと呼び合う時は「イワオ・サキコ」だったでしょうね。
Posted by あきの at 2020年12月03日 12:40
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