2018年04月30日

NO...4917 スピリッツ島 7-5

        5

「あのころは、人工透析なんていう言葉もなかった。ところがお前が死んで数年後に、それが新聞に載ったんだよ。悔しかったねえ。読んだときは歯ぎしりした。ーー何で今ごろこんな方法が出てきたのかと。でもね、すぐあとに、それでよかったと思ったのは、一回の透析が五十万円かかると知ったから。どこかの社長が七百万円つかって、金の切れ目が縁の切れ目と言いながら死んでいったと書いてあった。そんな高価なもの逆立ちしたって使えるはずないものね。月給が一万円時代だからね。でも今は進んだよ。健康保険が面倒を見てくれるんだよ。悔しいねえ。やっぱり悔しい」
 哲は黙って聞いていた。紗枝はかさぶたを毟ったような、むごい話をしていると思うが、どうしてかこの話はしてみたかったのである。
「お前が死んだときから、わたしは、神などいないと考えるようになったよ。神などは精神的に弱い人間のつくりごとだと思う。近ごろヨーロッパヘ旅行したけれど、どこに行っても教会の中には十字架に掛けられて死んだキリストがいた。人々は死を怖れるから、何かを頼りたくて考え出したものかも知れない。そう思わない? 」
「姉貴にはかわいそうな思いをさせたね。大変だったな」
「もし神がいて、全知全能というのなら、人間に公平のはずだよ。お前が死ぬのを助けてくれていたら、わたしは神を信じたかもしれない」
 紗枝はむきになって言った。
「その点、父さんの宗教はおもしろかった。まったくのご都合主義で。神棚も仏さんも同じ部屋に同居させて、両方を拝んでいたもの」
「あれは生にたいする敬虔な気持というのかもしれないよ。あの素朴さは、そう馬鹿にしたものじゃないさ」
 陽がすっかり山影に回ってしまい、外は落ち着きをもった静寂に変わっていた。
「お前、お風呂にはいれば」
「それはうれしいね。五十年ぶりの風呂だ」
 紗枝は、バスルームに行き、バスタブに湯をはった。少し熱めにしながら、気持のよい下着を着せなければと考える。時計を見ると、七時半。まだ店は開いていると思う。
「さあ、もう入れるよ。お姉ちゃん、お前のお風呂に入っている間に、町へ買い物に行ってくるから」
 紗枝はショッピングセンターに向かって駆けた。留守の間に哲がいなくなると困ると思ったのである。百メートルも走ると、心臓が痛くなった。それでも歩いたり、また走ったりと気がせく。下着を買い、胸に「JASPER」 と書いてあるTシャツも買う。それに暖かそうなセーターも。そしてジャージのトレーニング・パンツのようなのも買った。ズボンを買おうにも売っていなかった。店を出ると再び飛ぶようにして帰った。気はあせるが、七十を越えた体は急ぎ足がせいぜい。息を切らして部屋に戻ると、哲は湯から上がって、バスタオルで体をつつんだまま窓の前にいた。よかったと紗枝は安堵する。
「何を急いでいるの」
 紗枝は余計な心配をしたことにおかしくなりながら、ビニール袋をベッドの上に逆さまにした。
「ジャ、ジャーン。お前の下着。着替えるとさっぱりするよ」
「これはありがたい。何しろずっと同じものを着ているからね」
 紗枝は、引き出しからランドリーの袋を取り出して、バスルームヘ行き、脱いだものをそこに入れてクローゼットに置いた。
「汚いの、捨てるよ」
「近ごろは、こんなものを着るの。パンツもメリヤスなんだね」
「上に着るのはTシャツというんだよ。木綿のYシャツなんかより伸び縮みがあるから着やすいよ。あのころはどこに行くにもYシャツと学生服だったね。今は合理的になって着るものも体にらくなものが多くなっているよ」
「これはいいねえ。着心地がいい。五十年の間にいろいろ変わったものだ」
「そりゃあそうだよ。お前のこと今浦島って言うんだよ。日本に帰ったらびっくりすることばかりだよ。お前の大学の汚い寮もとりこわされたらしいしね」
 哲はこざっぱりした体をベッドに横たえた。紗枝はその幸せそうな顔を見届けてから、バスルームに行く。
 風呂からあがると、哲は寝息を立てていた。音がしないように気をつけながらベッドに入ったが、目を覚まさせてしまう。
「姉貴、眠くならないか? 」
「眠ってたまるかさ。お前と五十年ぶりに会えたんだもの」
 紗枝はこの気楽さがいいと思う。長い人生で大変なことがあるたびに、哲が生きていたら助けてくれただろうと何度思ったかしれない。その哲がここにいる。うれしくてたまらなかった。
posted by akino at 01:03| Comment(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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