2018年04月29日

NO...4916 スピリッツ島 7-4

          4

 ホテルに帰った二人はお腹がくちくなって、気持ちよくベッドに倒れこんだ。
 紗枝はせっかくの再会だから哀しい話はよそうと思っているのに、なぜか話は病院のことになってしまう。
 「入学翌年の夏に、お前は血尿が出てびっくりしたと、夜行列車で東京から帰ったでしょ。往診に来てくれた伊東先生は診ると首をかしげて言ったよね。幼いときにやった腎臓病の再発ですって。そして慢性腎炎になった場合、成人してから再発しやすいと説明したときは、みんな何とも言えない気持になって落ちこんだ。母さんは、お前が風邪をひく度に心配して、試験管二本にオシッコをとっては蛋白検査をしていたのにね。どうしても蛋白が出てしまうと気にしていた。でもお前は無事に成長し、異常を見せることもなく過酷な受験勉強も突破したので、もうだいじょうぶとみんなで安心したのに……。知り合いの佐竹先生が信大病院にいたから、そのツテを頼ってすぐに入院できたのよね。それから二十日間の闘病生活。母さんが白い割烹着姿で付き添っていたっけ」
 ベッドに横になって天井を見ながら話しているので、哲の顔は分からない。紗枝は話しながら哲を気にするが、冷静に話せるだけの年月が経っているとも考えた。
「入院のとき、父さんがリヤカーに道具を積んで引っ張って行ったね。病人の布団、付き添いの布団、それに鍋や七輪もね。廊下で煮炊きしたんだよ。お前、わたしの持って行ったオルゴールのこと憶えている? 音楽らしいものなんてあれだけだった。ショパンのノクターン。お前は、チャイコフスキーの悲愴が聞きたいと話していたよね。それに古本屋で宗教哲学の本を探してきて欲しいとも言った」
「そんなことを頼んだの、思い出すねえ……」
「どちらも思いをとげてやれないまま、お前は死んじゃった。病状があまりにも早く進んだからね。わたしはお前がどんな気持でそれらを欲しいと言ったのかが分かって、せつなかった。お前は、どうして自分だけに、こんなつらい運命が降りかかったのかと考えていたはず。――胸が裂けるくらい哀しかったよ」
「……」
「わたしは毎夜、病院から帰ると寝ながら何度そのことを考えたかしれない。眠れないままカーテンを開けると月の光が冴えていた。お前も病院で眠れないでいるだろうと、わたしは泣いた。母さんは病院泊まり。父さんとわたしは、朝に晩に病院へ顔をだしたよね。夏だというのに、厚い布団を股にはさんで、お前は寝返りをうっていた。わたしが眠れないのと聞くと、うん眠れなくて困ると、いつも言ったよね」
 部屋が寒くなってきたので、紗枝は入り口近くの璧に寄って、エアコンの温度を上げた。
「それは何? 」
「これ、部屋の温度調節ができるんだよ。二十四度にしたから、じきに暖かくなる」
「松本の炬燵だけの冬の生活とはずいぶん違うんだね」
「日本でも、今ではエアコンディッショナーで、部屋全体を暖めたり、夏になると冷やしたりするよ……。どこまで話したっけ。そうそう、それでね、わたしは佐竹先生に呼ばれたのよ。先生は、深刻な顔をして、おシッコさへ出れば……そう言ったきり、下を向いてしまった。先生は『もうだめですよ』そう暗示していたのに、わたしは気づかなかった。何としてもオシッコが出るようにしてやりたいと、それに気をとられていたのよね。利尿剤だというから、スイカを食べさせたらと思うが、食欲はまったくないし・・・考えは堂々めぐりだった。わたしが聞いたよね。寝床の上で尿瓶にオシッコしようとするから出にくいのかもしれない。下におりてオシッコしてみる? と。全身に力のないお前をみんなで抱きかかえるようにしてベッドの脇へおろした。お前のおチンチンをつまんでおまるの上に持っていった。栗くらいの小さなおチンチンだった。男の子のおチンチンを持ったのは初めてだったから、こんなに小さなものかと驚いた。かなり力んだが結局オシッコは一滴も出なかったね」
 その夜、哲は尿毒症を起こしたのである。全身に震えがくると、医者が飛んで来て、いろいろな処置をしたが、家族は遠巻きに見ているだけ。どうしたらよいかと、ただただ、うろたえた。
「それでもお前の頭はしっかりしていたよね。普通は意識が混濁するというのに、しっかりしていたよ。あの晩みんなで夜通し付き添った。お前は苦しそうで、眠れないでいる。わたしは、せめて気を楽にしてやりたかった。『何して遊ぼうか……』。眠れないでいるお前に言うと、『馬鹿モン』。お前は力なく、さびしそうに笑ったっけ」
「……五味はどうしている? 」
 哲は小学校から高校までいつも仲良しだった五味のことを聞いた。
「五味さんね、東京で会計事務所を経営しているよ。お前の言ったように重厚な性格の人だから、人がついてくるのよね」
「五味がねえ、あいつならきっと人の面倒見がよさそうだから、仕事は成功しているはずだよ。五味と見たライムライトを思い出すなあ」
「五味さん、高校時代の友だちと、お前の追悼文集をつくってくれてね、そこにお前と議論したチヤップリンのことを書いているよ」
「ライムライトの音楽はよかったな。姉貴メロディーを憶えている?」
 哲が口ずさみはじめると、紗枝も合わせた……
 窓から見える白樺が幹の白さをくっきりさせて、二人のハミングに合わせるように風が葉を揺らせた。
「お前がいなくなってからも、五味さんは両親をよく訪ねてくれてね。今でも親子三代の付き合いがずっとつづいているよ。わたしの三男がドイツに留学するとき、お前の代わりだからって、帝国ホテルで送別会をしてくれてね。お餞別までくれた。そのあとみんなで夜の日比谷公園を散歩したよ。お前の話をしながらね」
「いいやつだな。いつも変わらないやつだ。彼らしいよ。五味に会いたいな」
 
 夕暮れの庭に、赤い車が姿を見せ、ゆっくりと駐車場に停めた。ドアが開く。運転席から夫が降りた。後ろのドアから小さな女の子二人がつづく。最後に顔を見せた妻は小さな子を抱いていた。夫が子を受けとると、妻が車から乳母車を出して子を乗せた。こんどは車の後方からカバンをいくつか出す。女の子たちが、それぞれ縫いぐるみと、自分の荷物を持った。上の子のカールした金髪がゆれ、下の子はポニーテールの髪型。夫が大きなカバンの上にもう一つのカバンを載せて引っ張り、もう一方の手で大型のカバンを提げながら、ホテルの入り口に向かって歩き出した。
「ああいう家族、やってみたかったな」
「そう思うだろうね」
 普通に生きていれば、家族をもつことなど当たり前なのに、そこから外れた者にとっては、格別にうつくしい情景として映るのだろうと紗枝は哲に同情する。
「姉貴は、けっきょく高井と結婚したんだね」
「そう。でもね、結婚なんて絵に描いたようにいいものでもなかったよ。生前お前は、高井が『姉さんをオレにくれ』って言ったと話していたよね。そのとき『お前じゃむりだ、あきらめろ』と返事したとも話した。きっとお前は性格の違いを見抜いていたんだろうね。でもお前が死んで一ヵ月ぐらいして手紙をくれてね。父さんと母さんに相談したら、お前が先に死んでもうしわけないと思って、そうしてくれたんだよと言うから、付き合ってみることにしたのさ。最終的には自分で結婚を決めたのだから、人のせいとは言わないよ」
「何、うまくいかなかったの」
「そう、離婚した」
「子どもは? 」
「みんな大きくなるまでがまんして、それからつい最近になってしたのさ」
「姉貴も思い切ったことするね」
「そんなことはない。さんざんうまくいくように努力した末だよ。でもね、向こうが単身赴任をきっかけに家を出て、別に所帯を持ち、帰ってくるのを嫌がるのだからしかたないさ」
「驚いたね。やっばりオレのアドバイス通りにしていればよかったのに……」
「そんなことはないよ。おかげで子どもたちがいるもの。お前とも血がつながっているんだよ」
「そう言われると、うれしいね。オレの血がつながっているのか。死んでも残るものは遺伝子か。そのほかは何にも残らない」
「思い出が残る……お前もぜひ子どもたちに会わなくちゃ。みんな叔父さんに会えばよろこぶよ」
「叔父さんか……。それもいいなあ……」
 
posted by akino at 00:13| Comment(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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