2018年04月27日

NO...4914 スピリッツ島 7-2

     2

 思いがけないことが起こって、夢中で歩いてきたので足の痛いことも忘れていた。紗枝はやれやれと靴を脱ぐ。足が開放されると、のどが渇いていることに気づいた。
「コーヒー飲む? 」
「うん、でもどこで? 」
 怪訝な顔をする。
「ここにあるのよ」
 そう言いながらテーブルの上のコーヒーの包みを開け、備え付けの道具の蓋を上げて、洗面所からピッチャーで運んだ水を入れる。スイッチを押すと、間もなく音がしてコーヒーの香りがひろがった。哲は簡単に操作できるコーヒーメーカーに見入った。
「いいものがあるんだね」
「そうよねえ。考えれば、コーヒーは喫茶店で飲むものだった時代しか知らないものね」
「姉貴、駒場祭に東京へ出てきたとき、渋谷でコーヒー飲んだのを憶えているかい? あのとき、コーヒー飲むのは初めてだと言って、砂糖壷の半分も砂糖を入れたでしょ。あれは恥ずかしかったな」
「どうしてあんな苦いものを飲むのか不思議だったもの。コーヒーは小説に出てくる飲み物だと思っていたからね」 
 コーヒーカップを手にすると哲は、窓際のイスにかけて、懐かしそうに香りをたのしんでから、一口をいとおしむように口に含んだ。
「生き返るようだ」
 しんみりと言う。
 紗枝はその言葉がおかしかった。
「もう、生き返っているじやない」

 窓側のベッドのブランケットを持ち上げた紗枝は、足を滑りこませながら哲を眺めて、ほんとうにここにいるのは弟かと、足をつねってみる。
 (髪にウェーブがあるのは、父親似、鼻の高いのは母親似。笑うと私にも似ているところがあるかな)
 肉親を感じた。
「ねえ、父さんと母さんに向こうで会った? 」
「会わない」
「あの世って、みんなに会えるんじゃないの? 」
「だれとも会えないよ」
 素っ気ない言い方に、彼岸について聞くことは、タブーだと考える。どうせ死ねば分かることだから、聞くこともない。でも哲の感じではあの世も孤独な世界のような気がする。魂は浮遊しているだけだろうか。心という形のないものはどこへ行くのか。科学者が科学の研究を推し進めると、最後には割り切れないものが残ると書いているのを読んだことがある。哲が出て来られたのは、どうしてだろう。聞いてみたい。だが聞けば、あの世に帰ってしまうかもしれないと怖れる。
 右足の変形しているところが痛むので、暖めたらやわらぐかと、ブランケットの中で手に包みこむようにしてもんでいると、何だか松本の家の二階のコタツにはいっている気がしてきた。
「コート脱いだら……。あれ、お前のそれ、大学に合格したとき父さんが買ってくれたのだよね」
 見覚えのあるコートはよく似合っている。
 哲は思い出したように、ポケットから若緑色の実を取り出した。
「はい、おみやげ」
 細長い松ぼっくりである。見たことのない形だ。
「樅の木の球果だよ」
「へえー、樅の木には、こんな形が生るの。大きな体にスマートなのが生るんだね」
 紗枝は、手の上の松ぼっくりに見とれながら、
「クローゼットにバスロープがあるから、それを着るといいよ」
 コートを脱いだ哲は、クローゼットからバスローブを持ってきて、くたびれたYシャツの上からはおった。タオル地の白が哲の若さを際立たせる。
「お前と会えたなんて、夢のようだね。死んだばかりのときね、夢にでもいいから出て来てほしいと、ずいぶん待ったのに……。お前はちっともわたしに同情しなかった。一度だけ信大の講堂へ講演会に行ったとき、演壇近くにいた人がお前とそっくりだったので、いそいで近寄ってみたけれど違っていた。薄情だよ、お前は。夢にさえ出てこないんだもの」
「それは、もうしわけない。でもね姉貴、思わないかい。体って厄介なものだ。この大きな体のちいさな一部、腎臓という器官がだめになっただけで、死んでしまうんだから……」
「あのときお前の腕から時計を外したらね、日焼けした体のそこだけが白かったよ。母さんね、それを見て、ひと月前には美ヶ原へ登ったのにと泣いたよ」
 哲は思わず目に涙をにじませる。そして口ごもるように間を置いてから、
「オレだって、命を絶たれるのは不可解だった。何でオレが死ななければいけないんだと」
「そうだろうねえ。どうやらお前は天国に行っても、抹香くさくなっていないみたい。そこがお前らしくていいなあ……」
 紗枝は五十年が消えたような言い方をする。
「進路を決めるとき、わたしに相談したよね。理論物理に進みたいけれど、親をみなくてはいけないから、金のことも考えなければと……迷っていた。それから、こうも言った。できたら哲学やりたいけれど、これだけは食べられないから絶対だめだなって」
「九月から専門に進むときだったからな。まさか二学期が始まる日に、死ぬとも知らずにね……」
「ほんと。あんなことが来るなんて……。死ぬっておかしなことだよね。何もかも無になってしまうもの。人はすぐ先に死があると分かったら、努力なんかしなくなると思うよ。もっとも、ガンで死期が三ケ月先などと言われた人が、その三ケ月を充実させて生きたという話を読んだことがあるけれど……。ふつうはそうはならないと思う。お前が死んだときね、人生の行き着くところが、よくよく分かった。わたしの人生観はあのときを境に変わったよ。とにかく人は死ぬんだと、そのことは、どんなことよりも自分の中で強くなった。宗教家や哲学者は、いろいろな意味づけをするけれど、死ねば何にもなくなるものね」
「そうかもしれない。オレも死んですべてが無になった」
「やっぱり心残りでしょ。戦後十年目だったからね。まだ日本中が食べること中心にものを考えていたと思う。職業も食べられるかどうかが選択の条件だった。今だったら好きな道へ進んでも、最低は食べていかれるよ。それだけ世の中がよくなっている」
 いつの間にか部屋の中が暗く感じられるようになって、外の明るさが目立ちはじめた。ジャスパーの夏は、十時ごろまでは明るい。紗枝は哲といっしょに食事に行きたいと考えた。
posted by akino at 00:33| Comment(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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