2018年04月26日

NO...4913 スピリッツ島 7-1

       1
 
 雨上がりのジャスパーは、山に真綿をうすく引き伸ばしたような雲がかかり、松本の夏山に似ていると紗枝は思う。行けるところまで山に近づいてみたい。なんとなくそう考えてホテルから一つ目の角を右に曲がり、気軽に山へと向かった。
近そうに見えた山だが、歩きだすと簡単ではなかった。だんだん山全体の姿が見えなくなり、歩いても、歩いても両側に針葉樹林がつづくだけになる。夏物のパーカーを通して、体の芯に冷気が泌みこんでくる。がまんできなくなって進むのをあきらめて引き返そうとしたときである。
 林の中で何かが動く気配を感じる。
 ――背筋が凍りつく。
 逃げようにも足がすくんで動けない。
 暗く、もやっている奥から白っぽいものが現れた。
 ( ニンゲン、人間だ――)
 熊ではなかったと、安堵の胸をなでおろす。
 コートを、ざっくり羽織った男は声をかけてきた。
「どこまで行こうとしているの? 」
 ―― 怖がっていると見破られてはまずい。
「いえね、何となく山に見とれて歩いていたんですよ。やっぱり年取ると歩けるようで、長くは歩けませんねえ」  
七十という年齢を隠れ蓑にして平静を装いながら、来た道を走れるように体の向きを変える。相手はそれには頓着せずに明るい声を出した。
「その齢で、そのくらい歩ければ上等、上等。この山の色、雨上がりの松本に似ているでしょう」
 マツモト?……思いがけない。相手はたしかに松本と言った。それに話し言葉も日本語と気づく。背が百七十センチ上はあろうか。髪にウエーブがあり、彫りの深い顔立ち。
 ……弟もこんな感じだったと思う。
「もしかして、サ・ト・シなの? 」
 そんなはずはない。そう思いながら……聞こえるか聞こえないほどの声にしてみると、相手は聞き逃さなかった。
「うん。姉貴が来るのを待っていたよ」
 絶句する。
 何がなんだかわからないままに、目の奥から涙があふれた。
 ひとり旅の心細さから幻影を見ているのだ。早く宿に帰ろう。引き返しはじめると、相手も並んで歩き出す。
「お前、もう死んじゃったんだよ。五十年も前に……出てくるはずないじやない」
 まっすぐ前を見て、どんどん歩きながら、強い言葉をつかう。そうしながら、手の甲で涙を拭いた。拭きながら荒い息をして、なおも早足で歩きつづける。
「そうなんだよな……でも出て来れたんだ」
 相手は、紗枝のペースを崩すような、ゆったりした話し方をする。
「どこから? 」
「それは言えない。言ってはならないオキテのようなものがある」
「誰が決めるの。エンマサマ? 」
「エンマサマなんて、いないさ」
 声をたてて笑った。笑い方に憶えがあった。
 ……歩をゆるめて横を見る。青年らしいさわやかな額、じっと前を見つめて歩く目はたしかに弟のものだ。それにこうして二人で歩いた日があったような気がする。哲が大学入学のために上京する前の夜のこと、夜中に散歩しようと哲が言いだして、ススキ川の淵を歩いたのだ。
「お姉ちやんといっしょにホテルヘ行く? 」
「うん、ようやく会えたからな」
 紗枝は、自分のことを 「お姉ちゃん」と呼んでいる。並んで歩くのは二十歳のままの弟。大またで歩を運ぶから、あわせて歩いていると、背中に汗が流れはじめた。
 深い緑色の二階建てリゾート・ホテルは大きな樹木の中にある。入り口の看板には「chateau jasper」と金文字の筆記体が見えて、両側の花壇に赤と白のペチュニアが咲いている。こじんまりした清楚な入り口をロビーに行くと、奥の暖炉に火が燃えていた。紗枝は近寄って、すっかり冷たくなった手をかざしたが暖かくはない。雰囲気づくりの人工火と分かって、おかしくなりながら哲を振り返ると、目立たないところに立って、じつとこちらを見ながらニコニコしていた。

 部屋のドアーにカードを挟んで、赤が緑になったのを確かめて押す。
「ホテルの人、お前のこと気づかなかったねえ」
 ほっとしながら言うと、
「そりゃあ、そうだよ。姉貴にしか見えないもの。そのカードが鍵の代わり? 」
 不思議そうに聞く。室内に入るとあたりを見回して、まるで映画に出てくるようだとびっくりしてから、二台並んだ内側のベッドに長いからだを投げだした。
 自分の部屋のように遠慮がない動作を紗枝は好ましく眺めた。

 
posted by akino at 00:06| Comment(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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